眠りにつきました

眠りにつきました。遡って考える。なんだか今日は薬の効きがいいな。空腹状態だからか。グレープフルーツジュースは薬と良くも悪くも反応すると聞いたので昼間はそれも飲んだ。まだまだたくさん余っている。

普通であるという状態が一番耐えられないので、そういうことをする。

生きているという実感が強すぎるから、わざわざ不健康な行為をして、死の側に半分を浸しているのだと思う。希死念慮は五年ほど前から自覚したが、自殺念慮を覚え、ゆるゆると実行に移している、といっても道具を買い込むくらいのことだけれど、のはここ一年ほどのことだ。一年ももったのだからよくやった方だと思う。今すぐ首をつりたい。ビルから飛び降りたい。心残りがなかったとしたら。

少し前、真冬に、片道だけ飛行機のチケットを買って北国に飛び、雪山の奥地に行き、睡眠薬ウイスキーで過剰摂取し低体温で死ぬか、それとも雪国の情景を見て生きる理由か何かを見つけたいと思ったのだが、直接関係のないトラブルが重なりどちらも中途半端に終わってしまった。その結果まだ生きている。

私が触れている社会からみれば、自ら死を選ぶこと、しかも若くして、健康で、というのはまあまあ、人にもよるが、理解しがたいことという意見が多いのだ。親しい友人や、初めて会ったにもかかわらず話が合う人と話していても、同じような価値観の人はいなかった。それどころか、近親者の不幸の有無によって死生観が変わる、だとか、嫌いな人だったけれど亡くなった時はやはり悲しかった、とか、自殺で助かった人の八割はそれを後悔しているという内容の本があるよ、とか、実際的な話になってしまったので私には割と辛かった。私の意見は一言で言うなら「心残りがなくなったら死ぬ」なので、もとからその議論の歯車から外れて一人でぐるぐる回っていたようなものだった。淋しい体験だった。しかし、倫理的に社会的に正しいのはあちら側だということもわかっていて、もとから諦めていた。ただ、もしかしたら仲間がまぎれこんでいればいいなと思っただけで。全うな意見を言っていた皆も、ひょっとしたら正当な理由なく死にたい願望を持ちつつも、マナーとしてそれを言わなかっただけだったりしないか。まあ、いいけど。

以上を踏まえると、私の「心残り」に対しての感情は微妙なものとなる。心残りというのだから、それは私の好きな概念の一群だし、社会倫理から外れた自死という行動を取らないようにしてくれる。しかしながらひっくり返せば、それは足枷で首輪だ。しかも開錠は自分が許可すればいつでも可能なのだ。大好きな足枷と首輪にいつまで収まっていられるだろうか。